Summer Sonic 2022が3年ぶりに開催されました。洋楽邦楽問わず、僕も様々なアクトを観ることができました。いつにも増してポリティカルな面が強調され、コロナ禍による分断をさらに深める結果となったロックフェスティバルでした。こうした事象に言及せずに「ああ楽しかった」とすることも可能ですが、もうそういう時代でもないので、時間を空けつつ冷静に事態を見つめながら本記事を書いて参ります。
①誤解された”多様性”
②ロックフェスティバルの前提
③『邦ロック聴いても音楽聴いたことにならない』に対する反論
④個人的なベストアクト
①誤解された”多様性”
近年欧米から輸入されたPolitical Collectless所謂一連のポリコレ・ムーヴメント。ロックフェスティバルはそもそもリベラル的な価値観と共存することを良しとし、寧ろそれが本質的な立場として機能してきた面もあります。その裏付けは日本のフジロックを観れば分かることですし、世界中で開催されてきたフェスの多くが、そういった政治的な立場が割と明確なものでした。サイケデリック・カルチャーの一端は反戦主義と共にあり、ロックミュージックの一端は、かつてアメリカによって黒人奴隷とされていたアフリカ系の人々の音楽がルーツにあるからです。60年代後半にはアメリカからイギリスに渡ったパンク・ムーヴメントが、その象徴的な存在であったわけですし、ロックはどんな時代もリベラル性と共にあったといえます。
故に、本年のサマソニのヘッドライナーを務めたThe 1975が、開催前より「ジェンダーバランスを50%に」と明言していたことも、ステージでRina Sawayamaが「日本はG7でLGBTQに対するプロテクションがない」と言っていたことも、ある意味では当然の在り方なのでしょう。(因みにRina Sawayama、歌がクッソ上手かった:誰もここを言わないのは哀しい)
しかしながら、日本と欧米の文化的歴史的背景の差異を認識することをせず、ポリコレ棒による殴打が繰り返される現状は、多様性の本質とは大きく乖離しているようにみえます。イデオロギーの為に演奏されるロックがある一方で、イデオロギーの為に演奏されないロックがあること──これを受容することこそが「多様性」の本質なのではないか、と考えます。そこを飛び越えて、「日本のロックバンドは政治的主張をしないからダメだ」のような言説が蔓延っていては、相互理解は永遠に進まないと感じます。
②ロックフェスティバルの前提
そもそも、サマソニをはじめとするロックフェスティバルは、前提として「不特定多数の人々が参加するもの」であり、特定アーティストのファンだけが集まる場所ではありません。故に、多くの人たちが安心して楽しめるように、一定のルールが設けられています。そして、そのルールを等しく尊重することによって、他人のことも尊重し、みんなで楽しもう!という意義があったのが今年のフェスでした。これはなにもコロナ禍による特殊な事情ではなく、例年のフェスでも、或いは一般の様々なショップでも変わらないことです。
しかしながらとある日本のロックバンドは「夏フェス出禁になる覚悟できた、声を出せ、怒られたら俺が謝るから」「やめてほしい人たちもいるだろうけどこれが俺たちのやり方だから」「嫌な人は息をする回数減らしてみれば?冗談です」といった趣旨の発言を行いました。
そして、このことが「権力に反抗するロック」という一つのクールさの象徴のように捉えられていることも、「これだから日本は…」のように捉えられていることも、極めて残念です。日本には「郷」という言葉がありますが、それぞれがそれぞれの文化や慣習を尊重できなくなった瞬間に、それらの文化は破壊されていきます。この問題の本質は、コロナに対する価値観や、ルールの根拠・ロジックとは無関係であり、ましてや政治的なイデオロギーとも尚無関係です。合意に基づいて形成された約束を破っただけにすぎません。まとめてしまえば「単独でやれや」というつまらないお話でした。
③『邦ロック聴いても音楽聴いたことにならない』に対する反論
サマソニが終演した後に、以下のような記事を読む機会がありました。
『やっぱ「邦ロック」聴いても音楽聴いたことにならなくない?という話──サマソニにおける差別的な言動を通して』
この記事は実に非論理的で稚拙で、そして寧ろ差別的な記事でした。ご自身の政治的イデオロギーを担保するために書かれたような文章で、記事として機能していないようにも思えました。①で書いたように、日本と欧米ではそもそも文化的歴史的背景が異なる故に、出力される文化そのものが異なるのは、至極当然の結果であるということにも目が向いていない記事でした。
一方で、ホルモンとKing Gnuは「意図しない差別」を行った(僕が会場で見た限りは)わけです。これは確かに良くないです。しかしながら、Måneskinが猿の被り物をして演奏を行い、”dog”の部分を”monkey”に換えたことに対する言及がないのも違和感があり、結局のところ、この筆者の政治的、或いは社会的な立場の為に書かれた文章でした。これを世間では「ダブルスタンダード」と呼びます。そして
「リンダリンダズもマキシマムザホルモンもKing Gnuも、レコ屋やサブスクに並んで同じ『音楽』ということになっちゃうんすよね、残念すね、という感じ」
とも書かれていますが、単なるいちリスナーが「これは音楽だ、これは音楽じゃない」と決定づけ、上からものを語ることは、許されざる行為そのものです。そして、一般的にはその行為を「差別」と呼称します。人種、宗教、性別、民族などの属性を理由に、特別に冷遇することこそ、あってはならないことなのです。普段から邦楽を見下しているこの筆者が、洋楽と邦楽の対立構造を「論理の飛躍」によって勝手に生み出し、2022年のサマソニを利用しただけにすぎず、それ以上でもそれ以下でもありません。一体本当のレイシストはどちらなのでしょう。加えて、
「商業的なダメージを気にしてなのか、ボケっとしたノンポリなのかはっきりしないが、日本のロックス・ポップスの大半は、社会的なステートメントをほとんど発さずに、身辺雑記的なラブソングばかり歌っている。わかりやすい表出として、彼ら / 彼女らは選挙の時期になっても何も言わない」
とも表現されていますが、今のままで良い、と考える人たちが何も言わないのは当たり前の話です。そこを無視(あるいは気付いていない)して、ノンポリや商業主義的側面をひとまとめに批判するのは、間違っています。やたらとここ数年の日本では「選挙に行きましょう」「政治に興味を持ちましょう」と叫ばれ、政治が高尚なもののように扱われていますが、この背景には「現与党を倒して野党を勝たせましょう」という意志が透けて見えます。選挙に行かないこと、政治に興味を持たないこと、音楽を含めたエンターテイメントに興味を持たないこと、これらも全て「彼ら / 彼女ら」の選択の問題であり、そこに優劣はありません。
また、日本にも素晴らしい音楽家はいる、として具体的に名前を挙げられているのが「ASIAN KUNG-FU GENERATION」であることから察するに、つまりは自身が正義だと信じる左派的なイデオロギーの持ち主こそが、社会性を孕んでいて政治的にも正しい、とする姿勢は、やはりイデオロギーありきの傲慢な意見です。これらは単にポジショントークにすぎず、偉そうに若い人に向かって
「学べ、日本の音楽は社会性がない、日本の音楽は思春期商売の肥大化だ、社会的相続を素通りしてることを自覚しろ」
と言う前に、自身の在り方を今一度見直してみたら如何でしょう。まあ、残念ながら、一度イデオロギーに脳をハックされると、そこから脱却するのは大変に難しいのでしょう。
④個人的なベストアクト
2日間に渡って開催されたサマソニですが、個人的なベストアクトはアメリカが生んだミクスチャーロックバンドFishboneでした。はじまりの瞬間から、終わりの一音まで、全てが一貫したエンターテイメントとして完結しているショーでした。また、僕が見た全てのアクトの中で、取り立ててサウンドが良いというのも印象に残っており、歴史の長い実力派バンドとしての矜持を見せつけられているかのようでした。
現実に蔓延る様々な社会的な問題を認識するためにロックフェスに足を運ぶ、という人たちがいてもいいとは思いますが、僕はあらゆる現実を忘却するためにフェスに足を運んでいます。ステージで見られるスターたちの姿はまるで夢の如し、その場でPoliticalなことを考えたい、自認したい、と考えたことはありません。ですから僕のフェス人生は2022年をもって終了としたい、と思いました。これからの時代は、誰もがポリコレ棒を持参しなければならないという現実は、僕にとって悲劇そのものです。ずっと通い詰めてきたサマソニ、ありがとうございました。
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