私はスピッツというバンドの本質を見誤っていたかもしれない。日本を代表するロックバンド────というよりも、恐らくは「ロック」という印象ではなく「ポップス」としてのカテゴライズをしていたのかもしれない。
スピッツのアルバムを全て聴き、彼らのライブに足繁く通う方にとってみれば「なにを言っているんだ、君は、へっ」ということになるのかもしれないけれど、スピッツのアルバム「ハヤブサ」を聴くまで私は、彼らを「ポップス」という括りにはめ込んでいた。
そしてそのカテゴライズをしている人は、スピッツを聴かない人にとっては非常に「ありがち」な話ではないかと思う。そこで今日はそんなスピッツの新・解体新書とでも言おうか、そんなことを書いていきたい。
①「売れているバンド」の宿命
②「ハヤブサ」にみるガッチガチの”ロック”
③聴いてみることこそ価値がある
①「売れているバンド」の宿命
これはスピッツに限った話ではないけれど、今以て活躍を続ける息の長いバンドは、やはり音楽好きの間から「ロックじゃない」という、主観に基づく一方的な評価をくだされることがある。そしてそれは「日本人」が「日本人バンド」に対して行ってきたレッテル貼りだ。
X JAPANもB’zもONE OK ROCKもよく売れていて、既にメインマーケットでの大衆的評価を確立したバンドだが、そういったバンドは確かに穿った見方をされることが多い。そういう穿った見方をする人々は、きっとその曲を演奏するのがアメリカ人だったら絶賛しているに違いない。
だが、これはもはや仕方のないことで、総じて「売れているバンドの宿命」とも言い換えられる。
そしてスピッツもその例外ではなかった。
空も飛べるはず(引用:https://spitz-web.com/より)
あくまで一般的なイメージにおける《スピッツ像》とは「半永久的に歌い継がれる良質なポップソングを生むバンド」というものだろう。そしてこのことを裏付ける根拠は「ロビンソン」「空も飛べるはず」「チェリー」などといった、J-POPという万人が知る巨大なマーケットでの成功ではないか。
確かにそういう側面もあるけれど、そのイメージは私自身が抱く《スピッツ像》ともやはり近く、「バンド」としてのサウンドを期待していなかったのも確かだ。
②「ハヤブサ」にみるガッチガチの”ロック”
しかしスピッツ9枚目のアルバム「ハヤブサ」で、そういった私自身のイメージは一気に解体されることになった。このアルバムでは一般的にイメージされるところの《スピッツ像》は片鱗のみに留まり、ド・直球の”ロック”を鳴らしている。
ハヤブサ(引用:https://spitz-web.com/より)
彼らがパンク~ポスト・パンク以降のロックに造詣が深いことや、HR/HMフリークとも言えるほどの深い知識があることは知っていたけれど、このアルバムではその印象が非常に強い。
まず全編に渡り通底している聴感上の意識は、全体に弾けるような、あるいはほとばしるようは”ロック・グルーヴ”と言える。これを「ポップ」と呼ぶことには違和感しか感じない内容で、サウンドそのものはほぼポスト・パンク~ニューウェイヴに近いと言ってもいいかもしれない。
荒々しいうねりの中を縫うようにして絡みつく草野マサムネの声は、まさしく唯一無二で、透き通るようなカタルシスを通して、草野マサムネが描く空想、あるいはセックスと反抗の世界が広がっていく。
このアルバムは2000年に発売されているが、それから20年後の今、こうして衝撃を受けていることそのものが「衝撃的」で、なにより驚きや歓びを見出すことが出来る。マジ、とんでもないアルバムなんだ、これが。
③聴いてみることこそ価値がある
そして私が痛感したのは、世間やメディアのイメージは、全て正しいとは限らないということだった。寧ろ、その完成された一つのイメージを「妄信」することは、大変に危険で、なお自分自身の想像力や自由さ、幸せをことごとく奪っていく。
よく洋楽至上主義者が、とある日本人バンドのライブに行って腰を抜かしたなんて話があるくらいだから。
聴かないと分からないことが、あまりに多すぎて、本当に驚くことばかりだ。だから、どうか外の《像》=イメージが正しいのかどうかを、自分の耳で以て判断してみてほしい。
私自身がこの素晴らしきアルバム「ハヤブサ」を通して、発見することや驚き、新しい幸せをたくさん享受できた。こんなに”ロック”なスピッツのアルバムを聴けて、本当に幸せだと思う。スピッツ、ありがとう。
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