キースへリング。わずか31年という短い生涯の中で、激動に生きたアーティスト。キースは今、日本の若者が最も知る芸術家の一人となった。アンディ・ウォーホル、ジャン=ミッシェル・バスキアと並び称される男の一体どこが凄いのか。没後20年を経た今、OMOTE TO URAが彼に迫る。
私たちは「キースへリング」の名前は聞いたことがあっても、彼がなにを表現し、どう生きたのかをあまり知らない。UNIQLOのTシャツにプリントされている彼の作品だけではあまりに情報が乏しく、その本質は理解できない。しかしアートの歴史は、ファッションの歴史。OMOTE TO URAのブログカテゴリ「CULTURE」で彼を取り上げることで「アートっていったいなに?」という問いに少し答え、読んでくださる方に目いっぱいアートを楽しんでいただきたいと思う。
①キースへリングとアンディウォーホル
②キースへリングのアートの誕生
③同性愛者としてのアート
④キースのアートに対する考え方
①キースへリングとアンディウォーホル
キースへリングは1958年、アメリカのペンシルバニア州で生まれ、幼い頃からアートに興味のあった人であった。キースはグラフィックデザインを学ぶためにスクールに入学したが、自分の興味はそこにないと知り、わずか2年で退学に至った。
その後、本格的に自らの描きたい絵を模索し始めた。
そしてキースは1970年代にペンシルベニアを離れ、NYに拠点を移した。その頃NYではアンディ・ウォーホルが絶頂期を迎えていた。これまでのアート性から脱却した「ポップアート」なるものは、本来の絵画制作のプロセスを覆した、言わば発明ようなものだった。
ウォーホルのマリリンモンローのシルクアートやキャンベル缶は、その最も分かりやすい好例と言える。
②キースへリングのアートの誕生
拠点をMYに移したキースはサブウェイドローウィングと呼ばれる落書きを開始することになる。当時のNYの地下鉄には、広告を張り付けるための黒板があり、その黒板に彼は白いチョークで絵を描き始めた。
これは犯罪行為でありながら、一部の人はそれを許容し、緊迫感とゆとりのあるこの作品に対し、徐々に人々は彼のアートに夢中になっていった。
自己顕示欲の表現のようにも思えるこの行為は、やがてストリートアート(路上のアート)と呼ばれるようになり、キース自身は徐々にアート界に認められていった。
80年代は今ほどポップアートに対する価値が高くなく、既存のアート界からは依然として非難の声も多くあった。キースがここまで一般の人々に認められるようになったのは、ウォーホルの支援のお陰もあってのことだ。
またキースは自身の作品に対し、積極的に社会性を持ち込み、センセーショナルな渦を巻き起こしていった。
③同性愛者としてのアート
しかしそんな中、キースへリングは自分がAIDSに感染していることを告げられた。1988年のことだった。同性愛者であったキースはAIDSの撲滅キャンペーン等にも積極的に参加するようになり、それと同時に同性愛者に対する偏見をなくすメッセージを込めた作品や、戦争に対するアンチテーゼのようなメッセージを掲げた作品も多く残した。
④キースのアートに対する考え方
彼は「アートは崇高なものだけでなはい」という考え方を常に持っていた。つまり「アート」=「芸術」そのものが、美術館や教会のためのものでなく、権威づいた象徴であることから、人々の生活に密着することを望んでいた。これはアンディ・ウォーホルやジャン=ミッシェル・バスキア共に、持っていた同じ考え方だ。
そうして彼のアートは、権威の象徴であることよりも、様々な商業的な活動の幅を広げるために活用されていくようになった。
OMOTE TO URAの考えるアートとは、権威づきたい人のためのものではなく、権威そのものでもない。生活に不必要なアートを、是非愉しんでほしい。
OMOTE TO URAでは、アートも商品として扱う準備がある。
そして、山梨県にお住まいの皆様、のどかな清里にある「中村キースへリング美術館」に是非、訪れてみてほしい。あなたの想像を超えるキュートで楽しい異空間が広がっている。
Nakamura Keith Haring Collection