「”洋楽至上主義”という病」などといった、たいそうなタイトルではあるが、これは私が最近読んで非常に面白かった我孫子武丸さんの小説「殺戮にいたる病」からとっている。本章との筋はずれるが、このストーリーは大変に秀逸で最後の数行で一気に読者にカタルシスを感じさせる構成となっている。叙述トリックの傑作で、ここ最近読んだ小説の中では群を抜いて面白かった。興味のある方は是非。
さて、今回は「洋楽至上主義」について書こうと思う。というのも以前記した「ロックにおける商業主義とは」という記事が、未だにかなりの数読まれており、SEO的にも期待できるのではないかという「URA」の期待が一点、そしてもう一点が「洋楽至上主義に至るプロセス」を真剣に解き明かしてみたいと考えたからだ。少々長めの記事になりそうだが早速書いていく。
①日本人による欧米への憧憬の背景
②ロックのルーツを辿る
③海外メディアに乗っかると楽
①日本人による欧米への憧憬の背景
この「洋楽至上主義」という一つの趣向を語る上で、どうしても欠かせないのが、
そもそも日本人は欧米への憧憬が強い
という前提だろう。普通、日本において「外国人風メイク」と呼ぶ場合、それは決まって欧米の白人におけるメイクを指す。更には欧米のコングロマリットは当然のように日本の市場を席巻し、日本のドメスティックブランドでさえ、そのモデルには白人の若い女性を利用することがほとんどだ。
最近になってこそ、アフリカ系アメリカ人をモデルにすることも増えたが、基本的に「日本人」のモデルは日本のブランドであっても起用されないことが多い。
この異常なまでに特異な体質は、16世紀にスペインやポルトガルから「西洋服」が伝来し、長崎を中心にして「洋服」が広まっていったことを背景に確立されていく。鎖国政策を行っていた江戸時代には一般の庶民が「洋服」を目にする機会はほとんどなかったし、禁教令により「洋服」を着ることは忌避された。
しかし時の明治政府が一気に欧化政策を進め、伊藤博文は宮中での洋服着用を推進した。
(引用:https://mag.japaaan.com/)
それは所謂「文明開化」であり、西洋の文明や制度を導入するだけでなく、西洋の文化風俗までも導入したところに大きな特徴があるといってもいい。上図にはまさに和洋折衷の服装が見られ、警官や鉄道員、教員の服装などから「西洋化」がスタートした。
そして2020年の今に至るまで、我々日本社会というのは良くも悪くも「欧米」というものに侵食されている。そのことが利をもたらす場合もあるが、その一方で「欧米至上主義」が生まれてくるのも必然の結果だ。
②ロックのルーツを辿る
さて、話題を「ロック」に戻してみよう。
ロックは洋服などを含めた他の文化と違い、圧倒的にその歴史が短い。チャック・ベリーやエルヴィス・プレスリーなどが活躍し、「ロックンロール」を軌道にのせたのは、今からたった70年前のことだ。
(引用:https://ja.wikipedia.org/)
つまり「ロック」も「洋服」と同じで、日本にルーツは存在しない。特に「ロック」はアメリカ、イギリスという二大大国が引っ張ってきたこともあり、日本文化の根底にそのサウンドが根付いているとは言い難い。そして①で書いたような根本的な「欧米への憧憬」が、「ロック」と重なりあい、偏屈さを増した「主義」が完成していく。
それらは決定的な「コンプレックス」となり、日本のロックを認めない人たち───つまりは「洋楽至上主義者」が生まれていく。
彼らは「日本のロックはロックではない」あるいは「日本人にロックは演奏できない」という旧態依然とした体質、凝り固まった悪しき体質を未だに持っているが、きっと昔に外国人から「お前らの着ている服は、我々の服だ。盗むな」などと言われたことがあるのかもしれない。だからこそ日本人の奏でる「ロック」を「ロックじゃない」と認識し、Summer Sonicのヘッドライナーに日本人が出演することに、狂乱したかの如く立腹するのかもしれない。
しかし彼らの考える「世界」には「日本」が含まれていない。もっと言うとアフリカの国々も、アジアの国々も含まれていない。彼らにおける「世界」は欧米だけにあり、そしてその「世界」に骨の髄までしゃぶりつくされている。
日本の音楽市場はアメリカに次いで第二位であるし、イギリスとイタリアを足しても日本のマーケットの大きさには届かないのだが、それ以上に”洋楽至上主義者”らは「『我々は主流派の人とは違うのである』ということに、自らのアイデンティティを見出す」ことに命をかけている。
③海外メディアに乗っかると楽
しかし、同時にもう一つ考えねばならないのは「メディア」という問題だ。日本における多くの音楽メディアにとっての「世界」も同じく欧米に集結していることは明白だが、一方で彼らは日本のロックバンドを評価する視点を持っていないと思えてならない。
実際には日本のシーンにも、十分「世界」というマーケットで闘いぬける素晴らしい作品は大量にあると私は考えているが、それを評価する度胸がないのが日本のロック・メディアだった。というのも、洋楽を日本のメディアが評価しようとした時と、日本のバンドを日本のメディアが評価しようとした時では、そのプロセス・視点・度胸が大きく変遷するからだ。
つまりは「洋楽」は「海外メディアが生成した文脈に乗っかる」ことが出来るけれど、”日本のロックは自らが一から評価を積み重ねなければならない”という、健全とは言えない惰性があることは事実のように思える。
しかしそれと同等に乗り越えなければならないのは『「商業的圧力」と「イデオロギー」、それをふまえた上での「洋楽主義的でない建設的評価」を可能とするメディアが皆無に等しい』という現実であろう。
だからこそ、ロックを聴くリスナーは、そういったメディアの生み出す幻想に惑わされることなく、「良いと思ったものを良い」と言えるようでいたい。そして洋楽至上主義者にさよならを言って、好きなバンドを好きだと言える状態でいたい。主義者の「あんなのはロックじゃない」という言説を気にせず、音楽を聴けばいいように思う。
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