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ピカソのなにが凄いのか

パブロ・ピカソ。

「天才芸術家は?」という問いに、多くの人が彼の名前を挙げるだろう。しかし子供が描いたような絵、とも表現される彼の絵の一体どこが凄いのだろう?

今回はOMOTE TO URAがその「凄さ」の秘密に迫る。

 

 

①ピカソの背景


ピカソは1881年、スペインで誕生した。

ピカソの父、ドン・ホセは絵描きとして生計を立てていたが、ある日、8歳になった息子のピカソに絵を描かせると、自分の絵の才能を凌駕していたことに自信を失い、絵描きをやめてしまった。

幼少期から前衛的表現(キュビズム:後述)をはじめる前までのピカソの絵は、基本に忠実なもので、誰が見ても「上手」な絵を描いていた。

パイプを持つ少年(1905年 出典:https://yoi-art.at.webry.info/201202/article_3.html

現在も美術・アート市場におけるピカソ初期の作品の評価は高い。

ピカソは基本的に何度も作風を変えた。その分かりやすい好例が俗にいう「青の時代」や「薔薇色の時代」などだ。色調が大幅に変化したことは、ピカソの個人的な異性関係に原因があったとも言われている。

 

重要なのはピカソがゴッホなどと違い、絵画をビジネスとして捉えていたということだ。そのことが後押しして「キュビズム」と呼ばれる手法を確立していくことにつながった。

つまり生活に困窮していなかったから、自らの表現を突き詰めることができたということだ。

 

 

②キュビズムの確立


大多数の人が、「ピカソ」と聞くと下のような絵を思い描くだろう。

ピカソは元々この絵のような表現をしていたわけではなく、先述した理由により、この手法を生み出した。

この手法は「キュビズム」(キュビスムと呼ぶ場合もある)と呼ばれるもので、ジョルジュ・ブラックという画家と共に生み出したものだ。

私に限らずすべての人は物を一つの視点からしかみることが出来ない。しかし、このキュビズムという手法は、「様々な視点から物を見ることで、視点という概念を超えた人の本質」に迫ろうとした。

絵は二次元を越えられないが、ピカソは三次元の「物体」を二次元という絵に落としこもうとした、と言い換えることが出来る。

これはピカソがキュビズムと呼ばれる手法を最初に生み出したとされる「アヴィニョンの娘たち」だ。この表現はアフリカ彫刻からもインスピレーションを受けたとされている。

 

 

③ビジネスの才


ではこのアヴァンギャルドな絵画がなぜこれだけ評価され、何億円もの値段が付くのだろう?

それは2点に絞られる。

⑴これまでになかった新しい表現であるから

⑵絵を「金になるもの」として捉えたから

だ。

⑴は「キュビズム」というものに集約されるが、「絵はこうであるべきだ」「絵は美しくあるべきだ」という既成概念を大きく覆したことで、高い評価を得た。

「新しい」という概念は、いつの時代も常に重要で、特に芸術分野や「文化」というものはそうやって進化し、人々を驚かせてきた。

アートにおいてはアンディ・ウォーホルやキース・へリング、バスキアなどもそうだし、ファッションにおいてはジョン・ガリアーノや川久保玲、アレキサンダー・マックイーン、マルジェラなどがそれに当たる。

 

⑵は言わば「商業主義的である」ということだ。ピカソの発言の一つに「私がこの紙に唾をはけば、カネになる」というものがある。この合理的で商業主義的な考え方は時に批判されることもあるが、そのことを含めたものが現代に繋がるカルチャーそのものとも言える。

音楽やその他のカルチャーというものもそうで、「売れること」というのは非常に重要な価値を持つ。

売れないバンドにありがちな「わかる人だけわかればいい」というおごりのようなものは、「文化」というものの発展を大きく妨げる。これは日本の若手デザイナーにも言えることだ。

 

 

④ピカソはスター


前述した理由によってピカソはまさに「スター」となり得た。

自身の純粋な絵画的表現と、それを望むマーケットの双方なくして、ピカソという天才は現れなかった。

最も多作な芸術家として名をはせ、数々の女性と浮名を流したピカソが、今日における「芸術家」というイメージを形作っていたのは間違いない。

ピカソの自由さ、横暴さ、身勝手さ、いい加減さ、それらすべてをまとめて「美しい」という価値を作り上げたピカソは、やはり凄いのである。

 

 


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ワダアサト
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