ART

茨木のり子の詩がいま突き刺さる

茨木のり子。

1926年に愛知県で生まれ、「自分の感受性くらい」などの詩でしられる詩人。

愛知から上京後、戦争に巻き込まれ、飢餓・空襲などを経験し、詩人として活躍。

美しく凛とした言葉と、時にハッとさせられる言葉で、読む人に真正面から挑んでくる。

 

今回はそんな彼女の詩を、OMOTE TO URAがピックアップしてご紹介。

いま、若い人が読む価値のある言葉だ。

 

『茨城のり子 自分の感受性くらい より引用』

 

うまくいかないことを、他人のせいにする。本当は自分の人生の決定権は自分にあるはずなのに。いつか、誰かが、何かが、自分を動かしてくれると思っている。

 

この詩はプログレ代表作のPink Floyd「TIME」にも通ずるものがある。

『Pink Floyd TIME より引用』
『訳詞 プログレッシブロック名詞選 より引用』

 

このピンクフロイドのTIMEもまた、茨城のり子とは方向性がまったく違いつつも、「終わり」を想像することで、「今」の持つパワーを歌い上げたものだ。

退廃的で虚無主義的な「怒り」を内包したものは、やはり人を動かす力を持っている。

 

『茨城のり子 倚りかからず より引用』

 

何にも依存することなく、自分ひとりの力で精神的に立つこと。これがどれだけ難しいことか、現代に生きる人々はみんな知っている。

73歳でこの詩を書きあげたことが驚くべきことで、「倚りかかるな」としないところが本人主義的で、清々しい。

 

『茨城のり子 さくら より引用』

 

「ことしも生きてさくらを見ています ひとは生涯に何回ぐらい さくらをみるのかしら」で始まるこの詩。思いきりがいい。

「死」が「常態」という状態になるのには、それ相応の生きるという「経験」が必要となる。

人がこの世に生まれてから、感覚があり、感情があり、言葉があることを知る。言ってしまえば「なにかが在る」ことが「常態」であると錯覚を引き起こす。

つまり「生」が「常態」であるかのような勘違いをする。「生」が「常態」であることだと思ってしまえば、「死」そのものへの恐怖の感覚が生まれる。

それに気づかせてくれる人はそう多くなかった。

 

茨木のり子は丁寧で優しくもあり、鋭利で、独特な表現をする詩人だった。

言葉には力がある。

たまには言葉に騙され、前を向くのだって悪くないかもしれない。

 

 

 


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