FASHION

ファッションの歴史第三篇「シャネル~第二次世界大戦」

5回に渡りお届けする「ファッションの歴史」。今回は第三篇となる「シャネル~第二次世界大戦」までをお届けする。

第一篇「古代~17世紀」はこちら

第二篇「フランス革命~第一次世界大戦」はこちら

 

 

①ギャルソンヌルックとアールデコ

②シャネルの登場

③ヴィオネの女性表現

④ファッションとアートの接近

⑤第二次世界大戦開戦

 

 

 

①ギャルソンヌルックとアールデコ


20世紀に入ると女性たちは職業に就き、社会に出て自立するようになる。その流れは第一次世界大戦などの戦争によって、多くの男性が戦場に向かうことによってより促された。

女性たちの多くは兵器工場で働くようになり、男性の職業とされていた電車の運転手や警官などにも女性が就いた。一部の女性たちは軍服を着て、戦場へとかり出されていたが、そのことによって衣服に対する意識は大きく変わっていった。

この労働は、それまでの女性服がいかに機能的でなかったかを認識させ、女性のコルセットは完全に消失していくようになる。

 

ギャルソンヌ

第一次世界大戦は、欧州諸国を没落させ、アメリカの台頭を生む結果となった。アメリカから欧州にもたらされたジャズが流行し、一般家庭には自動車やラジオ、電気が普及。映画は大衆的な娯楽となり、チャップリンミッキーマウスがスクリーンを賑わした。

この頃のファッションリーダーは映画スターであり、NY・マンハッタンはビルが次々に建設され摩天楼へと変貌していく。

戦争によって社会進出を果たした女性たちは、その結果として新しい女性像をつくりあげていった。職業を持ち、自由に恋愛を楽しむその姿勢は1922年に公開されたヴィクトル・マグリットの小説の題名からギャルソンヌと呼ばれた。

ギャルソンヌ(出典:http://noma-cafe-fashion.blogspot.com/より)

 

アールデコ

1925年にはパリ現代装飾・工業美術国際展が開催され、その略称がアールデコ展であったことから、この時代のデザイン様式はアールデコと呼ばれた。アールデコはアールヌーボーの反動を受け、アフリカ美術とその影響を受けピカソブラックなどが確立したキュビスム、バレエ・リュスからのオリエンタリスム、ジャポニスムなどからも大きな影響を受けていると考えられている。

 

 

 

②シャネルの登場


1920年代を代表するデザイナーの一人に、ココ・シャネルがあげられる。下図は写真家、マン・レイが撮影した一枚である。

ココ・シャネル(出典:https://www.vogue.co.jp/より)

 

1910年代のシャネル

孤児院で少女時代を過ごしたシャネルの経歴は、帽子デザイナーからスタートする。1916年には男性の下着素材であるジャージー(後のジャージ:イギリスの島名)を利用してアンサンブルを作成。その後それらはカーディガンスーツへと展開され、シャネルスーツの原型を形作っていった。

 

1920年代のシャネル

この頃にはヨッティング・パンツを発表し、女性のリゾートウェアとしてのパンツスタイルを提案。イギリスの紳士服から影響を受け、女性服をより機能的にしていった。

また1925年にはシンプルな黒のリトルブラックドレスを発表。このドレスは革新的で、既存の女性服が気を失うほどにかたく締め付けられたコルセットが必須だったのに対し、このドレスはコルセットをなくし膝丈のシンプルなものというデザインがとられた。

第一次世界大戦下の状況において、女性は社会進出を目指していたが、既存のドレスはその大きな邪魔となっていた。

 

1920年代以降

20年代以降、シャネルは香水NO.5を展開する。この香水が革新的だったのは、

それまで天然香料を使用していた香水に、はじめて人工香料を使用した点。
シンプルで無機質なボトルデザイン。
ブランドに対する安定的な粗利の確保。

だったと言える。

NO.5(出典:Wikipediaより)

 

このようにしてシャネルは時代を大きく変え、その後メゾンはカール・ラガーフェルドというデザイナーに引き継がれていくこととなった。

カール・ラガーフェルド(出典:https://jp.fashionnetwork.com/より)

 

 

 

③ヴィオネの女性表現


1920年代にはシャネルが活躍する一方で、もう一人のデザイナーが大きく活躍する。それがマドレーヌ・ヴィオネである。ヴィオネは10代でお針子として働きはじめ、その後ロンドンの婦人服店で労働。第一次世界大戦をきっかけにイタリアへと渡り、イタリア未来派の芸術家たちと交流を重ねた。

シャネルが社会的な抑圧から機能を解放していったのに対し、このヴィオネは女性の身体美を表現することに長けていた。ジャポニスムからも大きな影響を受け、着物から発展させていった平面構造、左右非対称な洋服を製作した。

ヴィオネ(出典:http://maquisato.com/より)

 

またデザイナーのウォルトによって確立されたファッションシステム、オートクチュールは組織化が進められ、1920年代には1月SS(春夏)、7月AW(秋冬)、4月と10月の中間シーズンの年四回のコレクションが定着した。

 

 

 

④ファッションとアートの接近


ファッションとアートの接近には、ポール・ポワレなどのデザイナーも積極的な考え方を持っていたが、シャネルとジャン・コクトー、ヴィオネとタヤートなどが接近し徐々に作り上げてこられた一つの文化だった。

そんな中、イタリアのデザイナー、エルザ・スキャパレリは写真家のマン・レイ、画家のサルバドール・ダリなどと積極的に交流していくことで、ファッションにアートからのクリエーションを投影させていった。

サルバドール・ダリ(出典:https://www.artpedia.jpより)

 

ダリが確立したシュルレアリスムは、第一次世界大戦後の虚無感の中、人間の共通感覚や意識下を表現するのが芸術という立場で、夢、無意識、狂気、偶然性に着目してつくられていった。

スキャパレリはダリに影響を受け、香水・ショッキングを発表するなど、アーティスティックなブランドディレクションを多く手掛けていった。

ショッキング(出典:https://nottin.exblog.jp/より)

 

また、ファッションメディアが大きく発達したのもこの頃で、1930年代には雑誌・VOGUEの図版がイラストから写真へと移行し、アメリカ国内における個人消費は拡大していった。

 

 

 

⑤第二次世界大戦開戦


1939年には第二次世界大戦が勃発。1940年から45年までの間、フランス・パリはナチス・ドイツの占領下となった。その影響を受け、シャネルやヴィオネはメゾンを閉店し、スキャパレリなどのデザイナーは戦火を逃れてパリを脱却。

フランス、アメリカ、イギリスでは衣服統制令が発令され、着丈や用尺においては詳細までの規制が行われ、糸や布を使うことが最小限に抑えられた。

ファッション業界が大きく停滞する中、アメリカではクレア・マッカーデルが活躍し、業界をリードしていった。

 

 

そして戦争が終結した後に、シャネルはパリに戻り、戦争の間に活躍していたクリスチャン・ディオールが全盛期を迎えることになっていく。50年代にはバレンシアガ、ジバンシーなどが登場、パリのオートクチュールは最盛期を迎える。

 

 

参考文献

「改訂版・西洋服装史 文化服装学院編」
石井雅子 朝日真 鈴木教子
文化出版局 2012

「西洋服装史」
石井とめ子
衣生活研究会 1995

「モードの歴史」
T.R.ウィルコックス
文化出版局 1979

「ファッションの歴史」
千村典夫
平凡社 1969

 

 

 

 


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